เข้าสู่ระบบ朝になっても、押し入れから続いていた裸足の跡は消えなかった。
夜のうちに美月が一つずつ写真へ残し、朔も別角度から撮影していたが、窓を開けて朝の光を入れても、それらは畳へ薄い水染みを作ったままだった。押し入れの奥に設置した監視用カメラは、午前一時十一分から十三分までの二分間だけ記録が欠けている。電源は落ちておらず、保存領域にも破損はないのに、その時間だけ映像そのものが存在しなかった。
「写真が撮られた時間と重なる」
朔は端末の時刻を照合しながら言った。
眠っている澪を押し入れから撮影した写真は午前一時十二分。その前後だけ、こちらが設置したカメラは何も記録していない。人間が侵入して記録を消したなら、もっと痕跡が残るはずだった。押し入れの壁内空間には新しい擦れ跡もなく、昼間外した盗撮用カメラも封じた袋の中に残っている。
澪は枕元に残った最後の足跡から目を逸らした。
昨夜、暗闇の押し入れから確かに女が息を吸った。それを聞いた直後に美月たちを起こしたが、壁の中には誰もいなかった。隣室から駆け込んだ朔と悠斗、さらに二〇二号室から来た蓮司も空洞を確認したものの、人間が逃げた形跡は見つからなかった。
午前九時を過ぎる頃、蓮司と悠斗は二〇三号室の低い机へ過去の入居記録を広げていた。
「七人という前提から見直す」
蓮司が言った。
昨夜まで、常世荘二〇三号室から失踪した女性は七人とされていた。管理記録、家財放置、近隣住民の証言をつなげれば、確かに七人が突然部屋からいなくなっている。しかし蓮司が警察の公開情報や過去の住民票移動、旧住所の記録を重ねると、三人だけ数字が合わなかった。
「この三人」
蓮司が赤い線を引く。
「警察の行方不明者データに一致しない」
悠斗が資料を覗き込む。
「届け出が出てないだけじゃないのか」
「一人ならあり得る。三人とも住民票が別地域へ移ってる」
澪が顔を上げた。
「じゃあ、生きてる?」
「少なくとも転居手続きはされている」
「本人が?」
「そこまでは分からない。ただ、死亡や失踪の扱いではない」
美月も資料へ近づいた。
「家財は残したのに、住民票だけ移した?」
「そうなる」
奈々香が毛布を肩へ掛けたまま首を振った。
「普通、引っ越すなら荷物持っていくよね」
「普通なら」
蓮司の声は低かった。
七人のうち、本当に行方が分からなくなっている女性は四人。残り三人は、常世荘から突然姿を消したあと、別の場所へ住所を移している。だが管理会社には退去届も鍵の返却もなく、室内には衣服や食器、家具が残されていた。
「逃げたんじゃないか」
悠斗が言った。
「荷物を捨ててでも」
「何から?」
奈々香の問いに、誰もすぐには答えなかった。
蓮司は三人の転居先を一つずつ追っていた。そのうち一人、十二年前に二〇三号室へ住んでいた藤崎杏奈という女性だけは、現在の住所まで確認できた。今は常世荘から数百キロ離れた地方都市で暮らしており、名字も変わっていない。
「電話番号が残ってる」
蓮司が端末を見た。
「現在も使われている可能性が高い」
「今かけるの?」
澪が訊く。
「昼になる前に聞く。夜を待つ理由はない」
蓮司は番号を入力し、スピーカーにはせず耳へ当てた。三度目の呼び出し音でつながったらしく、彼の表情が変わる。
「藤崎杏奈さんでしょうか。突然申し訳ありません。御影と申します。十二年前に住んでいた常世荘について――」
相手が何かを言った。
蓮司が言葉を止める。
「分かりました。ですが、二〇三号室で起きたことについて確認したいことがあります」
また沈黙。
「椎名澄花という名前に心当たりはありませんか」
その瞬間、蓮司の眉がわずかに動いた。
澪は息を止めた。
「知っているんですね」
電話の向こうから、かすかな女の声が漏れた。
『その子……見ました』
澪の胸が強く締まった。
蓮司は端末を澪へ差し出した。
「本人と話せ」
澪は両手で受け取った。
「もしもし。雨宮澪といいます。椎名澄花の友人でした」
『……友人』
「はい。八年前に、澄花を見たんですか?」
電話の向こうで、女が長く息を吐いた。
『八年前です』
「どこで?」
『常世荘』
澪の指に力が入る。
『私、あの部屋から逃げたあと、一度だけ荷物を取りに戻ったんです。昼でした。夜には絶対戻りたくなかったから』
「そのとき、澄花が?」
『二階の廊下に女の子が座ってました』
杏奈の声は、記憶を探るように遅かった。
『制服。髪が長くて……額を怪我してた。血が乾いたみたいに黒くなってて、でも本人は普通に座ってたんです』
「右手首に何かありませんでしたか」
『赤い紐』
澪は目を閉じた。
間違いない。
八年前。
七刻女学校から姿を消した翌日、理科準備室から出てきた澄花。その後、常世荘へ来ていた。
「澄花と話したんですか?」
『少しだけ』
「何て?」
『ここに入らない方がいいって言いました』
「どうして?」
電話の向こうが静かになった。
杏奈は答えたくないようだった。
「お願いします。私たち今、二〇三号室にいるんです」
『出た方がいいです』
今までより強い声だった。
「でも、何が起きているのか調べないと」
『調べても、最初は何も出ません』
「最初は?」
『幽霊なんかじゃなかったから』
澪の背筋が冷えた。
「じゃあ、何がいたんですか」
杏奈の呼吸が浅くなる。
『壁の中に、人が住んでたんです』
部屋にいた全員が動きを止めた。
澪は押し入れを見る。
「人が?」
『男だったと思います』
「顔を見た?」
『ちゃんとは見てません。でも、大きかった。夜中に音がするんです。壁の中を移動する音。最初は鼠だと思いました』
杏奈の声は次第に速くなっていった。
『でも、食べ物が減るようになった。冷蔵庫に入れてたものじゃなくて、菓子とかパンとか。下着の場所も変わってた。洗濯して畳んだはずなのに、別の引き出しに入ってたり』
「警察には?」
『相談しました』
「調べてもらったんですよね」
『壁も見てもらいました。押し入れも。でも何もなかった』
「昨日、私たちは壁の中にカメラとスピーカーを見つけました」
杏奈が黙った。
「当時もありましたか」
『分かりません。でも、穴はあった』
「穴?」
『浴室』
奈々香が反射的に浴室の方を見る。
『お風呂に入ってたら、壁の小さな穴に何か光ったんです。最初は水滴かと思った。でも目でした』
澪の喉が乾く。
『人の目。見られてた』
「それで逃げた?」
『それだけじゃないです』
杏奈の声が震え始めた。
『夜中に寝てると、押し入れの中で呼吸するんです。私が起きると止まる。眠ったふりをすると、襖が少し開く』
澪は昨夜を思い出した。
午前一時十三分。
少しだけ閉じた押し入れ。
枕元まで続く裸足の足跡。
『一度だけ、寝たふりをしたまま見ました』
「何を?」
『男が出てきた』
澪の指が震えた。
『すごく痩せてた。髪も伸びてて、服が汚れてた。壁の中に何日もいたみたいな臭いがした』
「その人が、過去の女性を?」
『分かりません。私はその場で叫んだ』
杏奈は一度言葉を止めた。
『台所まで逃げて、包丁を持ったんです』
美月が澪の近くまで来た。
「それで?」
『男も出てきた。こっちを見てた。怒ってるんじゃなくて……笑ってた』
「襲われた?」
『近づいてきました』
杏奈の呼吸が乱れる。
『私、包丁を向けて、来たら刺すって言った。でも男は止まらなかった』
「どうなったんですか」
『人形がいた』
澪は返し雛を思い出した。
「日本人形?」
『はい』
「どこに?」
『押し入れ』
「最初からあった?」
『なかった』
杏奈の声が小さくなる。
『絶対になかったんです。私、ああいう人形が苦手だから、あったら覚えてる』
「それが、突然?」
『男の後ろに立ってました』
「立って?」
『座ってたのかもしれない。でも、位置が変わった』
杏奈の声は確信と恐怖の間で揺れていた。
『最初は押し入れの奥。次に見たとき、男の真後ろにいた』
「誰かが動かした可能性は?」
『部屋には私と男しかいなかった』
澪は言葉を失った。
『男も気づいたみたいでした』
「人形に?」
『振り返った』
「それから?」
数秒、何も聞こえなかった。
『人形が男を見上げてた』
澪の背中に鳥肌が立つ。
『目、閉じてたはずなのに。見られてるって分かるんです』
「男はどうしたんですか」
『逃げた』
杏奈は息を吐いた。
『壁の中に戻っていった』
「次の日は?」
『いなくなりました』
「確認したんですか?」
『音がしなくなった。食べ物も減らなくなった。押し入れも動かなくなった』
「それで荷物を残して逃げた?」
『はい』
杏奈の声が僅かに落ち着いた。
『その日のうちに友達の家へ行って、住民票も移しました。家具なんてどうでもよかった。二度と戻りたくなかった』
「警察には、その男のことを」
『言いました。でも証拠がないって』
「人形は?」
『言ってません』
「どうして」
『信じてもらえるわけないでしょう』
澪は返せなかった。
七刻女学校で起きたことを警察へ説明した自分たちも、同じだった。
「八年前、澄花に会ったとき、人形は?」
『持ってました』
澪の呼吸が止まる。
「黒い袋?」
『そうです』
「中に人形があった?」
『見せられました』
「澄花は何て言ってましたか」
杏奈は記憶を探るように黙った。
『戻さなきゃいけないって』
「どこへ?」
『部屋の中じゃないって言ってました』
澪の眉が寄る。
「どういう意味ですか」
『元の場所は部屋じゃない。もっと奥だって』
澪は押し入れの外された奥板を見る。
壁の向こう。
配管と断熱材。
昨日見つけた空洞。
「奥って、壁の中?」
『そこまでは聞けませんでした。あの子、誰かを待ってるみたいでしたから』
「誰を?」
『分からない』
杏奈の声がそこで急に止まった。
電話の向こうで、硬いものが床へ落ちた。
からん。
「藤崎さん?」
返事がない。
「どうしました?」
『……嘘』
杏奈の声が、今までで一番小さくなった。
「何が?」
『そんなはずない』
「藤崎さん」
『来ないで』
遠くで玄関のチャイムが鳴った。
一度。
二度。
澪の指が冷たくなる。
「誰か来たんですか」
『違う』
「玄関を開けないでください」
『人じゃない』
杏奈が息を呑んだ。
『人形が……』
澪の喉が詰まった。
「人形?」
『玄関にいる』
「扉の外?」
『中』
美月が澪の肩へ触れた。
「玄関の中に?」
『靴の横』
杏奈の声が泣き出しそうに震える。
『さっきまでなかったのに』
常世荘から数百キロ離れた町。
十二年前に逃げた女の家。
そこへ。
「藤崎さん、外へ出られますか」
『無理』
「窓は?」
『廊下に……』
杏奈の呼吸が止まった。
電話の向こうで、畳ではない床を何かが擦る。
さら。
さら。
小さな硬いものが玄関から室内へ移動しているような音だった。
「藤崎さん!」
『動いた』
「何が」
『人形』
声が裏返る。
『こっち向いた』
通話が切れた。
澪はすぐに掛け直した。
一度。
二度。
呼び出し音すら鳴らない。
圏外ではない。
接続できませんという機械音だけが返る。
「住所」
蓮司が立ち上がった。
「杏奈の現在住所を警察へ連絡する」
悠斗もスマートフォンを取り出す。
美月は澪の手から端末を受け取り、通話履歴と時刻を確認した。奈々香は押し入れから距離を取ったまま、青ざめた顔で壁を見つめている。
「人形が移動したってこと?」
奈々香が呟いた。
「昨日までここにあるって写真が来てたよね」
澪は何も答えられなかった。
二〇三号室に返すはずの〈返し雛〉。
それが今、数百キロ離れた杏奈の玄関に現れたのだとしたら。
畳の上で、何かが落ちる音がした。
全員が振り返る。
押し入れの前。
昨日は何もなかった畳の中央へ、赤い組紐の切れ端が一本落ちていた。
澪の鞄に入れていたものではない。
もっと短い。
先端が新しく切られたように濡れている。
そのすぐ横へ、白い小さな指跡が一つだけ浮かんだ。
まるで、誰かが人形をそこへ置こうとして、途中で気を変えたように。
澪の布団に座った返し雛は、それから一度も動かなかった。 朔のカメラには台所の透明ケースへ収められた姿が映り続けているのに、現実では赤い着物の人形が枕を背にして両手を膝へ置いている。 カメラを別角度から向けても結果は変わらず、液晶の中では空のはずのケースに人形があり、布団には何も映らなかった。 奈々香のスマートフォンだけはさらに違い、布団の上へ制服姿の少女を映したまま、返し雛そのものを一度も捉えなかった。「返す場所は、ここじゃない」 澪は、布団の脇に落ちていた紙をもう一度読んだ。 澄花の筆跡に見える一行は、それ以上の手掛かりを与えない。 二〇三号室へ来いと指示され、人形までここへ現れたのに、部屋そのものが目的地ではないのなら、残るのは壁の奥か床下、あるいは図面に存在しない空間だった。 返し雛へ触れることは避け、六人は二〇三号室を改めて調べ直すことにした。 蓮司は建物図面と実測値を照合し、悠斗は管理会社から送られてきた古い改修記録を追い、美月は過去の失踪者が残した相談記録を一件ずつ見直した。 朔は押し入れの空洞と新しい監視設備の接続先を調べながら、澪へ単独で動かないよう何度も念を押した。 昨夜、枕元まで裸足の足跡が来ていたことを考えれば当然の注意なのに、その言葉を素直に安心へ変えられない自分が澪には苦しかった。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 胸元の手帳に隠した澄花の言葉が、カメラと現実で異なる返し雛を見るたび鮮明になる。 朔自身が映像を偽っているのか、それとも澄花が別の意味を伝えようとしていたのか、まだ判断できない。 だから澪は人形から視線を外し、二〇三号室の中で、まだ詳しく調べていない場所を探した。 浴室は玄関脇の細い通路の奥にあった。 古いユニット式ではなく、後から改装されたらしい小さな洗い場と深い浴槽があり、隣に幅の狭い洗面台が設けられている。 蛇口の金属には白い水垢がこびりつき、照明をつけても薄暗い。 洗面台の上にある長方形の鏡は全面が曇り、端の銀引きが黒く腐食していた。「ここも壁が厚い」 蓮司が計測器を当てた。 洗面所と隣室を隔てるだけにしては二十センチ近い誤差があり、押し入れ側と同じく壁内に空間がある可能性が高い。 悠斗は改修図面を開いたが、浴室裏には給排水管用の空間しか記載され
藤崎杏奈の電話は、それから何度かけてもつながらなかった。 呼び出し音すら鳴らず、機械的な案内だけが同じ文句を繰り返す。 蓮司は杏奈の現在住所と、先ほどまで通話が成立していた時刻を警察へ伝え、安否確認を依頼した。 常世荘から数百キロ離れた町だと説明すると、管轄をまたいで確認することになると言われたが、蓮司は引かなかった。「人形の話はしないの?」 奈々香が低い声で訊いた。 顔色はまだ悪く、押し入れの前へ落ちた赤い組紐の切れ端を避けるように壁際へ寄っている。 蓮司は電話が切れる直前、玄関の中へ見覚えのない日本人形が現れたと杏奈本人が話していたことまで伝えたと答えた。 信じるかどうかは警察の判断だが、安否確認に必要な情報は一つも省かないという。 端末を置いた蓮司の手は、机へ触れる直前にわずかに力んでいた。 妹の失踪を八年間追ってきた彼にとって、杏奈は初めて突き止めた生存者であり、しかも事件翌日の澄花を見た証人だった。 その杏奈まで消えれば、また一つ澄花へつながる声が失われる。 澪は彼の焦りを言葉ではなく、何度も通話履歴を確認する指先から感じ取った。 昼を過ぎた常世荘二〇三号室には、朝よりも明るい光が入っていた。 窓の外では洗濯物が揺れ、階下から掃除機の音が響いてくる。 昨夜、押し入れから澪の枕元まで裸足の跡が続いていた部屋とは思えないほど、生活の音が近かった。 それでも奥板を外したままの押し入れだけは光を吸い込む穴のように暗く、剥き出しの配管と断熱材が奥へ沈んでいる。「杏奈さんが見た男も、こういうところにいたんだよね」 美月が壁内部へ懐中電灯を向けると、朔は十二年前なら今より奥まで通れた可能性があると答えた。 午前中に外したスピーカーと小型カメラは透明袋へ封じてあり、空洞に残しているのは自分たちが設置した監視用カメラだけだった。 悠斗が昨日調べた時点では途中をコンクリート壁に塞がれていたと確認すると、蓮司は隣の二〇二号室側からも構造を測るべきだと立ち上がった。 そのとき奈々香の息が止まり、全員が彼女の視線を追った。 狭い台所には古い流し台と小さな冷蔵庫があり、壁際には使われていない木製の低い椅子が一脚置かれている。 その椅子の上に、いつの間にか日本人形が座っていた。 黒い髪、白い顔、古びた赤い着物、小さな両手を膝の上へ揃え
朝になっても、押し入れから続いていた裸足の跡は消えなかった。 夜のうちに美月が一つずつ写真へ残し、朔も別角度から撮影していたが、窓を開けて朝の光を入れても、それらは畳へ薄い水染みを作ったままだった。押し入れの奥に設置した監視用カメラは、午前一時十一分から十三分までの二分間だけ記録が欠けている。電源は落ちておらず、保存領域にも破損はないのに、その時間だけ映像そのものが存在しなかった。「写真が撮られた時間と重なる」 朔は端末の時刻を照合しながら言った。 眠っている澪を押し入れから撮影した写真は午前一時十二分。その前後だけ、こちらが設置したカメラは何も記録していない。人間が侵入して記録を消したなら、もっと痕跡が残るはずだった。押し入れの壁内空間には新しい擦れ跡もなく、昼間外した盗撮用カメラも封じた袋の中に残っている。 澪は枕元に残った最後の足跡から目を逸らした。 昨夜、暗闇の押し入れから確かに女が息を吸った。それを聞いた直後に美月たちを起こしたが、壁の中には誰もいなかった。隣室から駆け込んだ朔と悠斗、さらに二〇二号室から来た蓮司も空洞を確認したものの、人間が逃げた形跡は見つからなかった。 午前九時を過ぎる頃、蓮司と悠斗は二〇三号室の低い机へ過去の入居記録を広げていた。「七人という前提から見直す」 蓮司が言った。 昨夜まで、常世荘二〇三号室から失踪した女性は七人とされていた。管理記録、家財放置、近隣住民の証言をつなげれば、確かに七人が突然部屋からいなくなっている。しかし蓮司が警察の公開情報や過去の住民票移動、旧住所の記録を重ねると、三人だけ数字が合わなかった。「この三人」 蓮司が赤い線を引く。「警察の行方不明者データに一致しない」 悠斗が資料を覗き込む。「届け出が出てないだけじゃないのか」「一人ならあり得る。三人とも住民票が別地域へ移ってる」 澪が顔を上げた。「じゃあ、生きてる?」「少なくとも転居手続きはされている」「本人が?」「そこまでは分からない。ただ、死亡や失踪の扱いではない」 美月も資料へ近づいた。「家財は残したのに、住民票だけ移した?」「そうなる」 奈々香が毛布を肩へ掛けたまま首を振った。「普通、引っ越すなら荷物持っていくよね」「普通なら」 蓮司の声は低かった。 七人のうち、本当に行方が分からなくなって
朝になっても、押し入れから続いていた裸足の跡は消えなかった。 夜のうちに美月が一つずつ写真へ残し、朔も別角度から撮影していたが、窓を開けて朝の光を入れても、それらは畳へ薄い水染みを作ったままだった。押し入れの奥に設置した監視用カメラは、午前一時十一分から十三分までの二分間だけ記録が欠けている。電源は落ちておらず、保存領域にも破損はないのに、その時間だけ映像そのものが存在しなかった。「写真が撮られた時間と重なる」 朔は端末の時刻を照合しながら言った。 眠っている澪を押し入れから撮影した写真は午前一時十二分。その前後だけ、こちらが設置したカメラは何も記録していない。人間が侵入して記録を消したなら、もっと痕跡が残るはずだった。押し入れの壁内空間には新しい擦れ跡もなく、昼間外した盗撮用カメラも封じた袋の中に残っている。 澪は枕元に残った最後の足跡から目を逸らした。 昨夜、暗闇の押し入れから確かに女が息を吸った。それを聞いた直後に美月たちを起こしたが、壁の中には誰もいなかった。隣室から駆け込んだ朔と悠斗、さらに二〇二号室から来た蓮司も空洞を確認したものの、人間が逃げた形跡は見つからなかった。 午前九時を過ぎる頃、蓮司と悠斗は二〇三号室の低い机へ過去の入居記録を広げていた。「七人という前提から見直す」 蓮司が言った。 昨夜まで、常世荘二〇三号室から失踪した女性は七人とされていた。管理記録、家財放置、近隣住民の証言をつなげれば、確かに七人が突然部屋からいなくなっている。しかし蓮司が警察の公開情報や過去の住民票移動、旧住所の記録を重ねると、三人だけ数字が合わなかった。「この三人」 蓮司が赤い線を引く。「警察の行方不明者データに一致しない」 悠斗が資料を覗き込む。「届け出が出てないだけじゃないのか」「一人ならあり得る。三人とも住民票が別地域へ移ってる」 澪が顔を上げた。「じゃあ、生きてる?」「少なくとも転居手続きはされている」「本人が?」「そこまでは分からない。ただ、死亡や失踪の扱いではない」 美月も資料へ近づいた。「家財は残したのに、住民票だけ移した?」「そうなる」 奈々香が毛布を肩へ掛けたまま首を振った。「普通、引っ越すなら荷物持っていくよね」「普通なら」 蓮司の声は低かった。 七人のうち、本当に行方が分からなくなって
押し入れの奥板は、外から見るより新しかった。表面には古い木材に似せた染みと擦り傷がつけられているが、朔が釘へ懐中電灯を寄せると、頭の縁にはほとんど錆がなかった。蓮司は壁厚を測った計測器を床へ置き、板の左右を指で叩いて空洞の広がりを確かめる。さっきまで向こう側から聞こえていた「出して」という女の声も、爪で木を引っかく音も、今は完全に消えていた。「外す。板が倒れるかもしれないから離れて」 朔が工具を差し込み、蓮司が反対側を押さえた。悠斗は押し入れの前へ古い毛布を敷き、美月は奈々香を畳の中央まで下がらせる。一本目の釘が抜けると乾いた金属音が落ち、二本目、三本目と続くたび、壁の向こうから冷たい空気が細く漏れ始めた。最後の固定部を外して二人が板を手前へ引くと、湿った断熱材と古い配管の臭いが六畳間へ流れ込んだ。 壁の中には、人ひとりが横向きになれば辛うじて進めるほどの空洞があった。左右には柱が立ち、灰色に変色した断熱材が垂れ、細い水道管と電線が奥へ伸びている。懐中電灯の光は数メートル先まで届いたが、人影はなく、女が何人も隠れられる幅もない。床代わりの梁には埃が厚く積もっており、たった今誰かが逃げたような擦れや足跡も見えなかった。「いない……」 奈々香が胸元を押さえた。安堵しかけた声だったが、美月は空洞から目を離さず、さっき三つ以上の声を聞いたと静かに確認した。人間がいたなら板を外す間に奥へ移動したことになるが、複数人がこの狭さを通れば、断熱材や埃に何か残るはずだった。蓮司も同じ考えらしく、床と柱の接触部へ光を走らせたあと、眉を寄せた。「俺が入る」 朔は小型カメラを胸元へ固定し、身体を横へ向けて空洞へ滑り込んだ。澪が呼び止めると、数メートルだけ確認し、何か見えても追わないと返す。暗い隙間へ消えていく背中を見送りながら、澪は胸元の手帳を服越しに押さえた。そこには、音楽室で見つけた澄花の字がまだ隠されている。〈朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない〉という一文は、見せる機会を逃したまま、彼を信じたい気持ちと疑うべきだという警戒の間に重く挟まっていた。 壁の中で衣擦れが響き、やがて朔が「見つけた」と声を返した。戻ってきた手には、掌ほどの黒いスピーカーがあった。背面には人感センサーと小型電池があり、壁内部を通る細い配線へ接続されている。朔が電源を入れ
夕方の常世荘は、あまりにも普通だった。七刻女学校のように山の闇へ隔離されているわけでも、立入禁止の鎖が巻かれているわけでもない。古い住宅街を横切る細い道路には買い物帰りの自転車が走り、少し離れた公園では小学生らしい子どもたちがボールを追いかけている。夕食の支度をしている家から焼いた魚の匂いが漂い、犬を連れた老人が常世荘の前を何の警戒もなく通り過ぎた。その日常の中央に、築四十年以上の二階建て木造アパートは何食わぬ顔で建っていた。 黄ばんだ外壁には雨垂れの黒い筋が幾つも走り、鉄製の外階段は錆びて赤茶色に変色している。二階へ渡る廊下の手摺には住民が干した小さなタオルが揺れ、建物脇の駐輪場には子ども用の自転車まで置かれていた。昨夜までいた廃校のような、近づくだけで人を拒絶する圧迫感はない。だからこそ澪には怖かった。七人の女性が消えた部屋のすぐ下で、誰かが普通に夕飯を食べ、風呂を沸かし、明日の仕事を考えながら暮らしている。「写真より、ずっと普通だね」 奈々香が小さく言った。借りた衣服へ着替えてはいたものの、左耳にはまだ薄いガーゼが貼られており、疲労の残る顔にはほとんど化粧がない。常世荘を見上げるたび、無意識に髪を耳の後ろへ押し込んでいた。「普通の建物ほど、住み続ける理由ができる」 蓮司が答えた。黒いジャケットの下には調査用の薄いベストを着込み、手には小型の計測器と書類鞄を持っている。「先に言っておくが、俺は呪いに付き合うために来たわけじゃない。妹がここへ来た可能性を調べる。それだけだ」「七日間は泊まらない?」 奈々香が訊くと、蓮司は視線だけを向けた。「要求した相手が人間なら、従う理由はない」「七刻女学校でも、それで済まなかった」 悠斗が低く返した。「だから今回は、何が人間の仕掛けで、何が違うのか最初から切り分ける」 朔が常世荘の屋根と外壁へ視線を走らせる。仕事用の小型カメラは胸元へ固定されていたが、七刻女学校を出てから澪はその赤い録画表示を見るたびに、胸の内側へ小さな棘が刺さるようになっていた。澄花の楽譜に残されていた一文は、まだ手帳の中へ挟んだままである。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 見せるべきかと何度も考えた。だが、透を殺す装置に朔の技術が使われていたこと、八年前のカメラと同じ識別番号で今夜の映像が記録され